根なし草近代の普遍性

 『神道新論』の序章で、

 その過程で、鶴見俊輔さんが『無根のナショナリズムを超えて 竹内好を再考する』の中で次のように言っているのに出会った。

と書き、鶴見さんの言葉を引用している。それを要約すると次の四項である。

一、日本の知識人は欧米の学術をそのまま直訳していて、日本語のように見えるが、実はヨーロッパ語であり、それをよくわかっていない。

二、そういうものとして操作しているので、根がない。しかし、日本語そのものは二千年の長さをもっています。万葉集から風土記から来ている大変なものなのです。イギリス語、フランス語より深い歴史をもっている。

三,この古い言語の意味に、さらにくっついている魑魅魍魎も全部引き受けて、何とか交換する場をつくりたい、それが竹内好の言語の理想である。

四、なぜ、それを生かさないのか。そこに日本の知識人が行っている平和運動とか、反戦運動がすぐにあがってしまう理由がある。

 そして、

 近代日本の思想や学術の言葉について言えば、古くからの根のある言葉を掘りさげ深め、そのうえに意味を定め、それを積み重ねてゆくということはなされなかった。

と著作の動機をのべられている。これは知識人や学術の言葉に関して言われている。次に、「分水嶺にある近代日本」では、

 非西洋にあって最初に近代資本主義の世となった日本は、そこに固有の課題を抱えている。西洋が帝国主義の段階になった中でその圧力のもと、急いで資本主義化した日本は、江戸の時代からの内的発展によって資本主義となったのではなく、そのゆえに、その文化は根なし草であり、底の浅いものであった。
 日本近代の教育は、根拠を問うことを教えなかった。言われたことをそのまま受け入れるようにしむけるものだった。「原発は安全だ」と言われればそのまま受け入れる。「どうしてそんなことが言えるのか。根拠は何か」と問うことを教えない。
 その土台のうえに、あの敗戦を総括することなく、そのまま戦後政治に移行し、東電核惨事でもやはりそれまでのやり方を変えられなかった。いまなお原子力災害非常事態宣言中であるにもかかわらず、為政者はそれを隠して復興を言う。
 すべて、日本近代の基本的な構造的な欠陥の結果である。

 と、近代日本の世の問題として提起した。

 言葉の問題と世のあり方の問題と、それはどのように関連するのか。

 これは、<言葉の問題、人と人の間の問題、世のあり方の問題>と、人と人の関係の基本的なあり方という問題を媒介に、相互に深く関連している。

 それを考えてゆくと、「実はヨーロッパ語であり、それをよくわかっていない」や「なぜ、それを生かさないのか」という鶴見さんの問題提起が、日本の知識人への批判というだけではなく、日本語を母語とする日本人そのものへの批判であり、さらにそれは、単に批判というよりは、近代日本の抱える構造的な問題そのものの指摘である。

 われわれが直面している近代日本の問題というには、「非西洋における資本主義化」という普遍的な問題である。そしてそれは、西洋が植民地支配をおこなってきたことと表裏をなす西洋そのものの問題でもある。