分岐の意味

分水嶺にある近代日本」で次のように書いた。

 二〇一九年にはじまる日本の分岐は、もはや何を選択するかという選択の内容や方向をめぐる分岐ではない。人民の内部について言えば,能動的に選択するのか、それとも無自覚に流されてゆくのかの分岐である。
 能動的に選択しようとする側にも、当然にさまざまの立場と意見の違いがある。しかしその内部では、思想信条の自由にもとづき、互いを認めあって議論を行い、そのうえで当面する政治課題においては行動を統一する。このことが、目的意識をもって追究される。アベ政治を終わらせるという課題で一致するものは、副次的な違いをひとまず横に置いて、行動で統一しなければならない。
 その意味で、この分岐は、選択しようとする民主主義か、流されゆく全体主義かの分岐である。政治的には、この全体主義を廃し民主主義を実現するのか、これをそのまま続けさせるのか、この分岐である。
 日本列島のこの国はいま歴史の分水嶺に立っている。

 そして、また次のように書いた。

 経済分野では、効率よりも人に優しいものをつくろうとする生産者と、それをいただくものを結ぶ協同組合運動が一例である。工業化された農業ではなく、無農薬野菜の栽培とそれを届ける体制も各地にできている。
 人を資源として使い捨てることに対抗し、人の尊厳を根底におく本来の労働運動もまた広がっている。さらに、いまのすさんだ世の中に居場所を失った人らと、できるところからつながり、たがいを認めあってゆく運動もまた根強く営まれている。
 このような運動のなかにこそ、資本主義を乗り越える契機が生まれている。新しい運動はいわゆる物質的な豊かさを求めるものではない。人の輝きを奪い尊厳を踏みにじる、そのことへの怒り、これが人々を突き動かし、世を下から動かしてゆく。そういう時代がはじまっている。
 しかしそれはまだ新しい政治勢力としては形成される途上であり、直接民主主義的政治行動の力で議会主義政治を動かしてゆくこともまだできていない。一方、アベ政治は、このような運動を担うものへの法によることのない非道な弾圧をかけてきている。弾圧はまた人々を結びつけるが、厳しい闘いが続いている。
 日本の今日の悲惨としかいいようのない現実を変えてゆくには、生活に根ざした新しい運動が政治的な力をもたねばならない。 
 まことの神道の教えに反するアベ政治ということは、一般的には認識されていない。しかし、今後ますます日本が没落してゆくなかで、なぜここに至ったのかを問う声は大きくなり、日本近代と国家神道の虚偽、それ に操られるアベ政治への認識は必ず多くの人々のものになる。