参考文献追加

 ページ数の都合と校正漏れがあり,参考文献に「小林惠子」の項を立てること,および「近代日本語論」に安富歩著の二冊を入れること,これが抜けていた。ここに追記する。

小林惠子
倭王たちの七世紀―天皇制初発と謎の倭王現代思潮社、一九九一
『三人の神武』文藝春秋社、一九九四
『広開土王と「倭の五王」』文藝春秋社、一九九四
『解読「謎の四世紀」』文藝春秋社、一九九五
『興亡古代史―東アジアの覇権争奪一〇〇〇年』文藝春秋社、一九八八
『本当は怖ろしい万葉集―歌が告発する血塗られた古代史』 祥伝社黄金文庫、二〇〇七
『古代倭王の正体 海を越えてきた覇王たちの興亡』祥伝社新書、二〇一六

近代日本語論
原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語』安冨歩明石書店、二〇一二
『幻影からの脱出―原発危機と東大話法を越えて』安冨歩明石書店、二〇一二

国が滅びるとき

 雁屋哲さんが、そのブログ「雁屋哲の今日もまた」の最新の「奇怪なこと」を次のように締めくくっておられる。

一つの国が滅びるときには必ずおなじことが起こります。

支配階級の腐敗と傲慢。
政治道徳の退廃。
社会全体の無気力。
社会全体の支配階級の不正をただす勇気の喪失。
同時に、不正と知りながら支配階級に対する社会全体の隷従、媚び、へつらい。
経済の破綻による社会全体の自信喪失。

これは、今の日本にぴったりと当てはまります。
私は社会は良い方向に進んでいくものだと思っていました。
まさか、日本と言う国が駄目になっていくのを自分の目で見ることになるとは思いませんでした。
一番悲しいのは、腐敗した支配者を糾弾することはせず、逆に支配者にとっては不都合な真実を語る人間を、つまはじきする日本の社会の姿です。

 それが世界的な資本主義のゆきづまりの中で,福島の核惨事をショックドクトリンとして現実化した.根なし草言葉による根なし草近代,そのなれの果てとしての現代日本である.これらのことは「分水嶺にある近代日本」 を見てほしい. 
 そして,このなれの果ての地から,それでも立ちあがってゆこうとするためには,考える言葉と言葉に蓄えられて智慧を取り出さねばならない.その思いから書き表したのが『神道新論』であった.
 もう少し準備をして,五月の後半には杉村さんとの対談ができればと考えている.

歴史の現段階

 日本の人民が直面している最も主要な問題は何か。それは言いかえれば、歴史を次の段階へときり拓くもっとも基本的な課題は何かということである。それはまた、歴史の現段階を正しくとらえるということでもある。

分水嶺にある近代日本」

 安保法制反対の運動のとき「戦後七〇年を迎えた今、立憲主義はかつてない危機に瀕している」ということが言われた。立憲主義とは何か。それは、その国の最高法規としての憲法を国民が定め、国家がこれを遵守し、そのもとで政治をおこなうということである。では、戦後日本の最高法規憲法であったか。
 占領が終わってから今日まで、日本国憲法の上には日米安保条約があり、日本政府の上には高級官僚と在日米軍からなる日米合同委員会がある。
 鳩山民主党内閣はこの合同員会によって潰された。安倍内閣はこの合同員会の指示によって、法を超えて権力をにぎり独裁政治をすすめ、戦争法などの諸法を作った。その仕上げが改憲である。すべては米軍と軍需産業のためになされている。
 在日米軍の背後にあるのは軍需産業であり、その国際資本である。日本の官僚はこの在日米軍を後ろ盾にしている。沖縄・辺野古に巨大な基地を作るのは、アメリカの必要からではない。米軍を日本に引き留めるためである。原発を再稼働するのは電力のためではない。アメリカとそれに従属する日本の核戦略のためである。
 立憲主義は日本において事実として、なかった。したがって、「近代国家の枠組」の崩壊と言ったが、正しくは「立て前としての近代国家の枠組」であり、それさえ崩壊したのが昨今の現実である。
 こうして今日の日本は、国際資本の収奪に国家と国民を完全にゆだね、すべてをそこに捧げる政治体制となっている。これを「アベ政治」と言う。ここまで酷いことは、歴史上はじめてである。

 アメリカとの関係では、最近、日本の空はすべて米軍に支配されていること、在日米軍はすべて治外法権の下にあること等が暴露されはじめた。奴隷であることさえ知らない真底からの奴隷状態を、ようやく脱する端緒が出てきている。
 アメリカは現代のローマ帝国である。それはすでに没落と崩壊の過程に入っている。いかに紆余曲折を経ようとも、それは避けられない。ここにアメリカの問題が表に出る背景があり、アメリカからの独立が現実の歴史課題となる条件がある。
 この歴史的現段階をふまえて近代日本を問い直し、資本主義の次の時代を見すえたわれわれの理念を育て、政治に向かう。これが問われる二〇一九年である。

神道新論』

 資本主義の行きついた果てとしてのアメリカは、現代のローマ帝国であり、資本主義の終焉という条件のもとで、解体過程に入ったローマ帝国である。帝国はその没落の過程で必ず戦争の危機をもたらす。いかに犠牲を少なくし、次の時代をひらくのか。ここに、いま人類が直面する最も大きな問題、つまりアメリカ問題がある。
 敗戦後、一貫してこのアメリカに隷属してきた日本は、この帝国アメリカの解体過程のなかで、激しく世が変動する。
 このなかでわれわれは、福島原発核惨事に神の言葉を聴きとり、それをふまえてアメリカ問題に向きあう。一国的には、アメリカへの隷属を断ちきり、まことの独立を実現する。そしてその過程で、帝国アメリカの没落をうけとめ、アメリカ人民の新しい世への闘いとたがいに呼応し連帯する。

 

分岐の意味

分水嶺にある近代日本」で次のように書いた。

 二〇一九年にはじまる日本の分岐は、もはや何を選択するかという選択の内容や方向をめぐる分岐ではない。人民の内部について言えば,能動的に選択するのか、それとも無自覚に流されてゆくのかの分岐である。
 能動的に選択しようとする側にも、当然にさまざまの立場と意見の違いがある。しかしその内部では、思想信条の自由にもとづき、互いを認めあって議論を行い、そのうえで当面する政治課題においては行動を統一する。このことが、目的意識をもって追究される。アベ政治を終わらせるという課題で一致するものは、副次的な違いをひとまず横に置いて、行動で統一しなければならない。
 その意味で、この分岐は、選択しようとする民主主義か、流されゆく全体主義かの分岐である。政治的には、この全体主義を廃し民主主義を実現するのか、これをそのまま続けさせるのか、この分岐である。
 日本列島のこの国はいま歴史の分水嶺に立っている。

 そして、また次のように書いた。

 経済分野では、効率よりも人に優しいものをつくろうとする生産者と、それをいただくものを結ぶ協同組合運動が一例である。工業化された農業ではなく、無農薬野菜の栽培とそれを届ける体制も各地にできている。
 人を資源として使い捨てることに対抗し、人の尊厳を根底におく本来の労働運動もまた広がっている。さらに、いまのすさんだ世の中に居場所を失った人らと、できるところからつながり、たがいを認めあってゆく運動もまた根強く営まれている。
 このような運動のなかにこそ、資本主義を乗り越える契機が生まれている。新しい運動はいわゆる物質的な豊かさを求めるものではない。人の輝きを奪い尊厳を踏みにじる、そのことへの怒り、これが人々を突き動かし、世を下から動かしてゆく。そういう時代がはじまっている。
 しかしそれはまだ新しい政治勢力としては形成される途上であり、直接民主主義的政治行動の力で議会主義政治を動かしてゆくこともまだできていない。一方、アベ政治は、このような運動を担うものへの法によることのない非道な弾圧をかけてきている。弾圧はまた人々を結びつけるが、厳しい闘いが続いている。
 日本の今日の悲惨としかいいようのない現実を変えてゆくには、生活に根ざした新しい運動が政治的な力をもたねばならない。 
 まことの神道の教えに反するアベ政治ということは、一般的には認識されていない。しかし、今後ますます日本が没落してゆくなかで、なぜここに至ったのかを問う声は大きくなり、日本近代と国家神道の虚偽、それ に操られるアベ政治への認識は必ず多くの人々のものになる。

 

人ー人間ー人

 『対話集』の「はじめに」で次のように書いている。

この対話では「人間」を定義し、それを用いている。2016年以降、その「人間」の意味が実は「人」にあったことを確認し、「人―人間―人」の第三の「人」を用いている。対話集では元のままにしてある。

  これは対話集が終わった後の2017年に追記したものである。

 江戸時代まで「ひと、人」を用いてきました。「人間」とかいて「じんかん」と読む言葉はあったのですが、そしてそれはいまも使うのですが、その意味は「人の住む世界。現世。世間。」のことです。この出典は、1988年の国語大辞典(小学館)である。

 近代になって、西洋語の human の翻訳語としてもちいるために「人間」の意味を拡げ「にんげん」と読むようにしたのです。同じ国語辞典には「人間(にんげん)」について次のように書いている。

1 人の住む世界。世の中。世間。人間界。じんかん。人の住む世界。世の中。世間。人間界。じんかん。
2 人界に住むもの。ひと。人類。
3 人倫の道を堅持する生真面目な人。堅物。
4 人としての品位。人柄。「あの人は人間ができている」

 近代語としての「人間」の形成とその意味、そして定義集からの再定義については『対話集』の「人間の溶解」で語りあった。

 その後、震災と東電核惨事を経て、自著『神道新論』をまとめてゆく過程で、実はこの「ひと」こそ、近代が発見した「人間」を今日において越えてゆく意味を内包していることに、思い至った。

 

根なし草近代の普遍性

 『神道新論』の序章で、

 その過程で、鶴見俊輔さんが『無根のナショナリズムを超えて 竹内好を再考する』の中で次のように言っているのに出会った。

と書き、鶴見さんの言葉を引用している。それを要約すると次の四項である。

一、日本の知識人は欧米の学術をそのまま直訳していて、日本語のように見えるが、実はヨーロッパ語であり、それをよくわかっていない。

二、そういうものとして操作しているので、根がない。しかし、日本語そのものは二千年の長さをもっています。万葉集から風土記から来ている大変なものなのです。イギリス語、フランス語より深い歴史をもっている。

三,この古い言語の意味に、さらにくっついている魑魅魍魎も全部引き受けて、何とか交換する場をつくりたい、それが竹内好の言語の理想である。

四、なぜ、それを生かさないのか。そこに日本の知識人が行っている平和運動とか、反戦運動がすぐにあがってしまう理由がある。

 そして、

 近代日本の思想や学術の言葉について言えば、古くからの根のある言葉を掘りさげ深め、そのうえに意味を定め、それを積み重ねてゆくということはなされなかった。

と著作の動機をのべられている。これは知識人や学術の言葉に関して言われている。次に、「分水嶺にある近代日本」では、

 非西洋にあって最初に近代資本主義の世となった日本は、そこに固有の課題を抱えている。西洋が帝国主義の段階になった中でその圧力のもと、急いで資本主義化した日本は、江戸の時代からの内的発展によって資本主義となったのではなく、そのゆえに、その文化は根なし草であり、底の浅いものであった。
 日本近代の教育は、根拠を問うことを教えなかった。言われたことをそのまま受け入れるようにしむけるものだった。「原発は安全だ」と言われればそのまま受け入れる。「どうしてそんなことが言えるのか。根拠は何か」と問うことを教えない。
 その土台のうえに、あの敗戦を総括することなく、そのまま戦後政治に移行し、東電核惨事でもやはりそれまでのやり方を変えられなかった。いまなお原子力災害非常事態宣言中であるにもかかわらず、為政者はそれを隠して復興を言う。
 すべて、日本近代の基本的な構造的な欠陥の結果である。

 と、近代日本の世の問題として提起した。

 言葉の問題と世のあり方の問題と、それはどのように関連するのか。

 これは、<言葉の問題、人と人の間の問題、世のあり方の問題>と、人と人の関係の基本的なあり方という問題を媒介に、相互に深く関連している。

 それを考えてゆくと、「実はヨーロッパ語であり、それをよくわかっていない」や「なぜ、それを生かさないのか」という鶴見さんの問題提起が、日本の知識人への批判というだけではなく、日本語を母語とする日本人そのものへの批判であり、さらにそれは、単に批判というよりは、近代日本の抱える構造的な問題そのものの指摘である。

 われわれが直面している近代日本の問題というには、「非西洋における資本主義化」という普遍的な問題である。そしてそれは、西洋が植民地支配をおこなってきたことと表裏をなす西洋そのものの問題でもある。

対話をはじめる

 2016年秋の雑誌「日本主義」への寄稿から、2018年の『神道新論』の出版にいたる道は、2019年3月の同じ雑誌の終刊号への寄稿「分水嶺にある近代日本」で一区切りをつけた。これはまた、1999年夏以来の青空学園での思索と基礎作業のうえに、ようやくできたことでもあった。 

 そのうえに、『神道新論』の内容を普遍性と固有性の相互に行き交う場において深め、これをのべることが新たな課題となった。 

 これまで青空学園数学科では、2000年の頃から「数学対話」として数学現象からはじめてそれを解きほぐし一般化をめざす対話を積み重ねてきた。日本語科においても、自己の内部の統一をめざし、2005年12月~2011年1月にかけて「対話集」にあるように長い対話を重ねてきた。

 これらの経験をもとに、日本語科において再びうちなる対話をはじめることとした。これは、これまでの営みを継承するものである。形はまだ整えないが、これをここ「対話の試み」において、順次書き加えてゆく。